特発性正常圧水頭症について
idiopathic normal pressure hydrocephalus: iNPH
東機貿でも医療機器を取り扱っている疾患「水頭症」について、治療のエキスパートである高木清先生より、そもそもiNPHがどいういう疾患なのかをわかりやすくご解説いただきました。
執筆者:我孫子聖仁会病院 正常圧水頭症センター センター長 髙木 清先生
特発性正常圧水頭症(iNPH)は、忘れっぽい(認知症、痴呆症)、 おもらしをする(尿失禁)、ころびやすい(歩行障害)など、「年のせい」にされてしまいがちな症状の原因となる病気の一つです。正しく診断されれば、たとえ脳梗塞や脳出血などの脳血管障害や、髄膜腫のような良性脳腫瘍の合併があっても、比較的簡単な手術(髄液シャント術:当院では VA shunt)によって症状の改善が期待できます。
iNPH と NPH
特発性正常圧水頭症は、「治療可能な認知症の原因疾患のひとつ」 として、新聞、テレビ、雑誌、インターネット(www.inph.jpなど)を通じて一般の人々にも広く知られるようになった疾患です。しかし、70歳以上の高齢者に多く、症状がゆっくり進む場合が多いので、「年をとったせい」と思われて多くの患者が見逃されているのが実情です。
「特発性」というのは、「原因が分からない」と いうことで、実際に、医学の進んだ現在でも何故このような病気が起こるのかは分かっていません。「特発性」は英語のidiopathic (イディオパティック)の訳です。「正常圧」というのは、脳脊髄液の圧が正常であると言うことで、英語ではnormal pressureと言います。子供の水頭症は昔から知られており、この場合は脳脊髄液圧(脳圧)が高くなって脳室が拡大し、激しい頭痛や嘔吐、意識障害を起こし、死亡することもあります。高齢者に多い正常圧水頭症では、脳室が大きくなるにも関わらず脳脊髄液の圧は高くなりません。これは大変不思議なことです。「水頭症」というのは「頭の中に水(脳脊髄液)がたまる」ということで、英語では hydrocephalus(hydro = 水の、cephalus = 頭)と言います 。続けて書くと、idiopathic normal pressure hydrocephalus で、単語の頭文字を取って iNPH と呼ばれることもよくあります。インターネットで検索するときも、iNPHで検索するとたくさんヒットします。
正常圧水頭症(NPH(i がついていません))は、脳神経外科医や神経内科医の間では、クモ膜下出血や髄膜炎などの後に歩行障害(足が十分にあがらない、歩幅が狭い、ヨチヨチ歩き)、失禁、認知症の3つを起こす病態として良く知られています。この疾患が「治療が可能な認知症」と知られるようになってからすでに50年以上の歳月が経ちます(1965年が最初)。これは原因がはっきりしている続発性(二次性)正常圧水頭症(secondary NPH, sNPH)と呼ばれ、原因となった病気がハッキリしていて、しかも元の病気が治ってから比較的短い間に症状が現れるので、見逃されることは殆どありません。
最近話題になっているのはiNPHです。何の原因も見つからないのにこれら3つの症状を引き起こすNPHです。この病気は70歳以上の高齢者に見られることが多く、私がこれまでに手術した患者は、70歳以上が85%以上で、平均年齢は78歳です。85歳以上の患者についてもVA Shantを行っていますが、高齢にもかかわらず、合併症は非常に少なく、予後は多くの患者で良好です。
iNPHは、比較的簡単で体への負担が少ない手術によって、歩行障害や認知症などの症状が改善します。2004年に日本で「診断と治療のためのガイドライン」が公表され(2011年と2020年に改訂されている)、iNPHを専門としない医師の間でも少しずつ認識が広がっていますが、まだ多くの患者が治療されていません。また、ガイドラインそのものも発展途上です。
症状
症状は先にも述べた通り、歩行障害、尿失禁、認知症の3つを主症状とし、これを三主徴(iNPH trias)と呼んでいます。これら3つの症状が全て揃う場合もありますが、歩行障害のみ、または頻尿のみという場合もあります。認知症のみという症例は、文献的にも、また私の個人的な経験からも極めて少ないようです。
症状からは「パーキンソン病」、「過活動性膀胱」、あるいは「アルツハイマー型認知症」と診断され、症状があまり改善しないのに、薬が長期間処方されていることが今でも珍しくないようです。iNPHはこれらの疾患と合併することもあり、服薬を続けてもなかなか症状が改善しない場合は、iNPHを疑ってみることが必要です。
脳梗塞(特にラクナ梗塞と呼ばれる小さな脳梗塞)を合併していることも多く、この場合は脳血管性認知症と診断されたり、脳梗塞による歩行障害と診断されることも多いようです。
CTやMRIを撮っても、Alzheimer型認知症による「脳萎縮」あるいは「多発脳梗塞」と診断されて長期間薬が処方されていることもあります。
整形外科領域において、「ロコモティブ・シンドローム」と間違われていることもあるようです。
三主徴以外の症状もあります。シャント術で改善した症状を列挙しておきます。
意欲がなくなって一日中ボンヤリしている
うつ状態(精神科専門医にうつ病と診断されていて、シャント術後に全く治癒した例もあります)
易怒性(怒りやすい)
頭痛
めまい
ふらつき
足の浮腫(むくみ)
診断
診断のためのフローチャート(診断の流れ図)が「特発性正常圧水頭症診療ガイドライン」に示されています。googleで「特発性正常圧水頭症ガイドライン」「フローチャート」と入力して検索するとみられます。簡単に言えば、次の5つに要約できます。
60歳以上で歩行障害、認知症、排尿障害のどれか一つの症状があり
これらの症状が他の病気では説明がつかず
脳室の拡大があればiNPHを疑う
iNPHを疑ったら髄液排除テスト(タップテスト)を行う
タップテストで症状が改善すればシャント術の適応がある
正常成人の頭部MRIを図1に示します。頭痛の精査や脳ドックでこのような正常画像を数多くみますが、このような画像所見でiNPHの症状を訴えた患者は、これまでの経験では1例もありません。診療ガイドラインではDESHと呼ばれる画像所見の重要性が強調されています(図2)。これは典型的なiNPHの画像です。しかし、このような「典型的」な画像所見は私が治療して改善したiNPH患者全体の3分の1程度に過ぎません。また、このように拡大した脳室を図3に示すような、通常は脳萎縮とされてしまう患者でも、多くの場合タップテスト症状の改善が認められます。
図3は正常な人の画像ですが、脳脊髄液の異常な貯留は認められません。
手術で改善するかどうかを判断するための診断方法はいくつか提案されていますが、腰椎穿刺(背中から針を刺す)で脳脊髄液を捨てて症状が改善するかを見るテスト(タップテスト、tap test)が一番簡単で、安全かつ確実性が高いと考えています。評価する症状としては、歩行(3m TUG: Time Up & Go、3mの距離を往復歩行する時間を測定する)、体のバランス、認知機能(MMSE, FAB, RBMT)などです。
治療(手術)
iNPHの治療法は、今のところ手術(髄液シャント術)以外にはありません。100%安全な手術はありませんが(感染や術後出血の問題)、薬やリハビリでは良くならず、時間の経過と共に症状は確実に悪くなるので、手術はやむを得ない選択です。
1回の髄液排除(タップテスト)でかなり長く症状が改善していることもあり、この場合には認知症(軽度の場合も含む)がなければ経過を見ます。しかし、症状がすぐに元に戻ってしまう場合や、認知症を合併していて、その原因がiNPHと思われる場合には早期の治療(手術)が必要と考えています。
手術は脳脊髄液を持続的に排除するために行いますが、これにはいくつかの方法があります。代表的なものとしては以下の3つの手術法があります(www.inph.jp/chiryou.html)。
脳室腹腔短絡術(ventriculo-peritoneal shunt, VP shunt)
腰椎クモ膜下腔腹腔短絡術(lumbo-peritoneal shunt, LP shunt)
脳室心房短絡術 (ventriculo-atrial shunt, VA shunt)
現在世界中で広く行われているのはVP shuntですが、最近の調査では日本で行われているiNPHに対するシャント術のおよそ7割がLP shuntです。VA shuntは、他の手術でうまくいかなかった時や、おなかの手術を受けていて腹膜からの髄液吸収が悪いと予測される場合以外はほとんど行われていません。多くの脳神経外科医がVA shuntを好まない理由は、血管に管(カテーテル)を入れて心房(実際には心臓に入るのではなく、その手前の太い静脈(上大静脈))にカテーテル先端を置くので、感染を合併すると敗血症になり、致死的な状態になると誤解されているためと思われます。しかしiNPHに対するVA shuntについて感染(敗血症)の合併が特に多いと言うことを指示する証拠は全くありません。このようなことが正しいのであれば、不整脈の治療として高齢者に行われることの多い心臓ペースメーカーの埋め込みでも敗血症が多いはずですが、そのようなことが大きな問題になってペースメーカーの埋め込みがためらわれている、ということは聞きません。
当センターでVA shuntを第一選択にしている理由は、次に挙げるような特性から、他の手術法に比べてVA shuntの方が優れていると考えられるからです。
心房(実際には心臓にまでカテーテルを入れることはなく、上大静脈にカテーテルの先端をおく)は血液が返ってくるところなので圧が低く、安定した脳脊髄液の流れが期待できる。
シャントシステム全体の長さが短く(全体で約40cm、VP shunt では1m以上)、脳脊髄液の流れに対する抵抗が低いので効果が早く現れる(口に含んだ水を、短いストローと長いストローで吹き出すときの違いと同じ)。
便秘や肥満などで腹圧が上がり、脳脊髄液が流れにくくなることがない。VP shuntやLP shuntでは、便秘や肥満のために症状が悪化することがある。VA shuntでは、息を吸い込んだときには中心静脈内が必ず低くなり、このようなことは原理的に起きない。
以前に受けた腹部手術の影響を受けない。VP shuntやLP shuntでは、腹膜が癒着していて脳脊髄液の吸収が悪くなることがある。
高齢者では圧迫骨折などで腰椎が著しく変形していることがあるが、VA shuntでは脊椎の変形に影響されない(LP shuntでは手術自体が出来ないこともある)。
お腹に傷を付けないので、手術後すぐに起きあがれる。事情によっては手術の当日に退院することも可能。
腹部に傷を付けないので、手術後すぐに食事が出来る。
失禁がある場合、お腹に傷がないので尿で傷口が汚れる可能性がない。
手術をする範囲が狭いので、感染のリスクが低くなる可能性がある。シャント術での感染率は1%から5%と言われているが、現在まで当センターではシャント感染は0.5%しか起こしていない。このための死亡はゼロ。
高齢者では、シャント術後に胃癌や大腸癌などが見つかることがあるが、これらの手術の妨げにならない。実際に900例以上の手術患者で、術後に癌が発見された患者は約30例あり(約3%)、決して少ない数ではありません。
以上の理由で、VA shuntを第一選択としていますが、どの手術法を選択されるかは、最終的には患者とその家族にゆだねられます。
VA shuntの治療成績に関しては、歩行障害の改善だけでなく、高次脳機能障害の改善についても良好な成績を得ています。手術例の平均年齢は78歳ですが、手術をしてから3年以上経過しても自立している症例が多いことも、iNPHに対してVA shuntが優れていることを示していると考えています。
症例の説明:術前と予後
症例 1:82歳 女性
13年前から骨粗鬆症と変形性膝関節症で歩行に支障がありましたが、81歳4ヶ月から歩行障害が顕著になり、入浴したら出られなくなって一晩浴室にいました。来院時は歩行困難、失禁、認知症(MMSE = 16/30)であり、MRIでは脳室拡大は認めますが(Evans’ Index = 0.317)DESH所見は見られず、ラクナ梗塞を伴っていました。タップテストで歩行が顕著に改善したので、82歳になって、右VA shuntを行いました(手術時間33分)。
術前と術後1年の画像および、術前、術後1年、術後2年の動画を示します。
術前は立ち上がることも困難でしたが、術後1ヶ月で杖なし歩行できるようになり、失禁もなくなりました。MMSEで数値化した認知機能は、術前 16/30、術後1年で 28/30、術後2年で 26/30 で日常生活が自力で行える状態が術後3年まで維持できました。バルブ圧は手術時の 140mmH2Oから2年半かけて 10mmH2Oまで下げました。
患者の身長は136cm、手術時の体重は49.5kg でしたが、2年後には 58.9kgと、約10kg増加していました。
症例2:78歳 女性
某大学病院脳神経外科で20年以上抗てんかん薬を処方されていました。77歳の時、手足の浮腫の精査と加療のため1ヶ月半入院しましたが、退院後には認知機能が低下し、歩行は困難で失禁するようになりました。入院前には自立していました。症状が悪化して3ヶ月後に来院した。画像上脳室拡大を認めましたが(Evans’ Index = 0.33)、DESH所見は認めませんでした。タップテスト直後から歩行障害が顕著に改善したので、78歳5ヶ月で右脳室心房短絡術を行いました(手術時間26分)。
術前、術後2年、術後4年後の画像および、術前、術後3ヶ月、術後4年の動画を示します。
術前は立ち上がることも困難でしたが、術後3ヶ月で杖なしでゆっくり歩けるようになり、バルブ圧を段階的に下げることで徐々に改善し、術後4年で最も良い状態になりました。失禁は術後3ヶ月でなくなっており、MMSEで数値化した認知機能は、術前 19/30、術後6ヶ月で24/30、術後4年で 24/30と長期間改善していました。
バルブ圧は、手術時140mmH2Oからゆっくり下げ、4年後に40mmH2Oにしました。
これらの症例から分かること
脳室心房短絡術では、ガイドラインの画像診断基準を満たさない症例でも、長期間の症状改善が得られました。
症例1ではラクナ梗塞があり、脳血管性認知症とされて、治療の対象とならない可能性があります。
症例2では術後の体重を測定していませんが、症例1では術後2年で約10kgも体重が増加しており、この時点でバルブ圧は変えていませんが症状は改善していました。高齢者では体重の変化が起こりやすい可能性があり、この点からも、脳室心房短絡術は高齢者の特発性正常圧水頭症の治療として適しています。
バルブ圧を下げることで、症状はゆっくり改善する症例があります。定期的な症状と画像の評価を行い、バルブ圧を変更していくことが必要であり、そのために圧可変式バルブは必須です。
症例2から分かるように、特発性正常圧水頭症の患者は、入院を契機に急速に悪化することがあります。入院や長期臥床の後に歩行障害などが現れた場合、特発性正常圧水頭症を疑ってみる必要があります。
以上
ソフィサ社製のシャントシステムについて
1976年、フランスで創業したTKBグループ傘下企業「SOPHYSA(ソフィサ)社」は、水頭症を治療する圧可変式シャントバルブの開発におけるパイオニア・カンパニーです。1984年に発売されたソフィーバルブは、個々の患者さんの状態変化に対応し、設定圧を非侵襲的に調節できる世界初の圧可変式シャントバルブとして誕生しました。
それに続き2004年、設定圧の意図しない変化を防止するために設計された、初のセルフロック機構を搭載したシステム「ポラリスバルブ」を開発しました。このポラリスバルブは圧の調整ミスなど臨床リスクの軽減や日常生活で遭遇する磁場のへ安定性を提供し、患者さんのQOLをより向上させるシステムとなっております。
ソフィサ社は1989年に東機貿グループの一員となり、日本、ヨーロッパ、アメリカをはじめ、世界各国で水頭症の患者さんの手助けを続けています。
おかげさまで4 5 周年
SOPHYSA社は2021年に45周年を迎えることになりました。これまで支えてきてくださったすべてのお客様に、こころより御礼申し上げます。今後とも、東機貿・SOPHYSAをよろしくお願いいたします。